のどコラム

コラム

耳鼻科医から見たアーティストと演奏 第9回

耳鼻科医の立場から、医学と演奏を探る

イタリア・ローマで生まれた五十嵐。意外なことに父、五十嵐喜芳は「声楽はもっと歳を重ねてからでも」ということで、最初はピアノを習っていたそうだ

音楽之友社刊「音楽の友」2021年7月号掲載

初めてのソプラノ歌手の登場だ。五十嵐麻利江はテノール歌手の故五十嵐喜芳を父に持ち、イタリアと日本で活躍するオペラ歌手だが、近年は昭和音楽大学の教授として後進の育成にも力を注ぐ。その五十嵐がふだん疑問に思っている身体やのど、声の出しかたなどを、耳鼻科医にぶつけてみた。

ゲスト

五十嵐麻利江Marie Igarashi

(ソプラノ歌手)

お話

竹田数章Kazuaki Takeda

(仙川耳鼻咽喉科院長)

アシスタント&まとめ=道下京子Text = Kyoko Michishita

写真=武藤 章Photo = Akira Muto

声帯も一人ひとりの個性

道下

五十嵐さんは、長く声を使ってきて、なにかのどの悩みなどはございますか。

五十嵐

私は、若干ハスキーなのです。歌をやっていた父だけの遺伝子を受け継げば良かったのですが…… 父が東京藝術大学作曲科出身の母に惚れたところは、悪声だそうです。しゃがれ声のような、そういう声に魅力を感じると父は言っていましたが、それで私は苦労しました。質の良い声帯と普通の声帯、そして悪い声帯って本当にあるのでしょうか。

竹田

結局、それぞれの個性なのです。体つきが一人ひとり違うように、声帯もそれぞれ違うのです…… 大きさも幅も厚みも、それから使いかたも違い、見ただけで判断することはできないのです。西洋音楽については、その人のレパートリーのなかで才能が発揮できれば、そしてその人の持っている「声帯という楽器」を活かしきれればよいと思います。もちろん、声帯に病的な変化があれば通常は悪い声帯といえます。

五十嵐

学生や卒業してプロになる人たち、プロとして劇場で活躍する歌手たちのアドヴァイスもしていますが、息をコントロールして、声帯のもっとも良い部分にきちんとあたるように……そこを柔らかく使っていれば、疲労も少ないし、長い時間歌えるし、のどの寿命も長くなります。

竹田

声帯はとても小さなものですが、いろんなことがわかっています。呼吸のコントロールが重要で、声帯の調節も同期させなければなりません。呼吸をベースとしての喉頭調節があり、最終的に共鳴を活かす……その3つで声をコントロールしているのです。内喉頭筋(喉頭の内部の筋肉)には5つの筋肉がありますが、それらをうまく協調させながらコントロールしますので、複雑なことをやっているわけです。若い人たちは、力を入れれば高音を出せます。でもそれはあまり良い声とは言えず、のどを痛めてしまい、30〜40歳ごろになると声が出なくなってしまいます。
発声とオペラ……それぞれに特化した指導者

竹田

イタリアをはじめ欧米では、声楽のトレーニングや指導の歴史は長く、そのすぐれた指導を日本でも、もっと取り入れていったほうがよいのです。

五十嵐

発声を指導する先生とオペラを指導する先生がいます。たとえば、オペラを指導する先生は、発声についてはかかわりません。ソロの先生と同時に、ヴォーカル・トレーニングの先生のもとにも通っていた時代もありました。いまではそういうシステムがほとんど崩れています。

竹田

日本の場合、オペラを歌う人がすべてを教えようとしているので、声の基礎作りの部分が少し抜けてしまっているように感じます。
伝わる感覚

五十嵐

いまの若い人たちは、身体をしっかりと機能させて声帯を酷使せずに発する声を聴く機会があまりにも少ないのです。私たちのころは、レナータ・スコットやカルロ・ベルゴンツィ、マリエッラ・デヴィーア……すばらしいかたたちがたくさんいらしたので、そういう人たちが劇場の空間にどのように声を飛ばしているかが、視覚的には見えないけれど、見えるのです!

竹田

骨董の鑑定ではないけれど、本物かどうかの区別は、悪いものばかり見ていてはわかりません。でも、本当によいものにずっと触れていると、悪いものが見えてきますね。すばらしい演奏を日ごろから聴いていると、「ああ、そのことか」と身体でわかります。

五十嵐

いまは、YouTubeで昔のアーティストの教えや、歌っている場面を見ることもできますので、良い声で歌っている人にめぐり会えたら、その人がどのようなやりかたをしているかを、いくらでも学べると思うのです。バリトンのピエロ・カプッチッリの声は、アレーナ・ディ・ヴェローナという野外劇場のような、どんなに広い会場でもすみずみまでよく聴こえてきました。彼と食事をする機会があり、「客席と客席の間の細いところを狙って歌わないと。広がった声はだめなのだ」とうかがい、長年にわたってきちんと状態をチェックして歌っている人は、私たちの想像を超えたことを考えながらやっているのだと思いました。
パッサッジョ

道下

素朴な疑問ですが、ソプラノの人はなぜあんなに高い声が滑らかに出るのでしょうか。

五十嵐

パッサッジョと呼ばれるところがあるのですが、そこをうまく通過できなければ、高い声には上がれないようにできているのです。でも、ミレッラ・フレーニは「2カ所あるというパッサッジョのうち、私には1カ所しか存在していない。それは神に与えられたものだから、この楽器(身体)は大事にしたい」とインタヴューで答えていました。

「パッサッジョ」等、発声の話で盛り上がる。

竹田

パッサッジョは、日本語では換声点と言われています。声区が切り替わる、移行部のことです。低い声から高い声に上げていくと、途中で声が裏返る、邦楽で言えば、地声と裏声が切り替わるところがありますが、その箇所を言います。ベルカントの人たちは、その切り替わるところがわからないように、スムーズにつなげているのです。声区にはいろいろな分類がありますし、音声生理学と歌手では捉え方がちがうこともあり、混乱しています。音声生理学では、「同じ発声のメカニズムでだせる同じような音色感の声の範囲」と考えています。いわゆる地声や胸声区と呼ばれている低音や中音の音域では、左右の声帯はしっかりと合わさって振動しています。しかしファルセット(仮声区)と呼ばれるものは、そのようなしっかりと合わさった振動ではなく、左右の声帯が接触していないぐらいに見える、細かい振動のさせかたなのです。これらの違いは複数の内喉頭筋群、外喉頭筋群をつかって複雑に声帯調節の仕方を変えることでなされています。パッサッジョの箇所は、筋肉の調節の仕方が変わるところなので不安定になりやすく、声のトラブルが目立つところです。声区の滑らかな移行、つまりパッサッジョをなめらかに行うことを習得することが、ベルカント唱法での一つの大切な目標になっています。
Profile
五十嵐麻利江(いがらし まりえ)

1959年、イタリアのローマ生まれ。桐朋学園大学声楽科卒業。1970年代後半に芸能界デビュー。NHK総合テレビ『脱線問答』レギュラー出演。1985~90年、イタリアのミラノに留学。1986年、ボローニャ市立劇場でヴェルディ《リゴレット》のジルダ役でオペラ・デビュー。1991年、藤原歌劇団のベッリーニ《夢遊病の女》のリーザ役で日本デビュー。藤原歌劇団、トリノ王立歌劇場、トリエステ歌劇場、ローマ歌劇場等でオペラ出演。各種コンサートで演奏とともに司会でも活躍。昭和音楽大学教授、藤原歌劇団団員。

竹田数章(たけだ かずあき)

1959年生まれ、京都府出身。仙川耳鼻咽喉科院長。日本医科大学大学院博士課程卒業。医学博士。現在仙川耳鼻咽喉科院長。桐朋学園・洗足学園非常勤講師。音声生理学や臨床音声学の講義を行う。文化庁能楽養成会(森田流笛方)研修終了。趣味は音楽、スポーツ、観劇、フルート、書道。監訳書に『ヴォイス・ケア・ブック声を使うすべての人のために』(ガーフィールド・デイヴィス&アンソニー・ヤーン著、音楽之友社刊)、『発声ビジュアルガイド』(セオドア・ダイモン著、音楽之友社刊)。

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