耳鼻科医から見たアーティストと演奏 第16回

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耳鼻科医の立場から、医学と演奏を探る

2023年の松の内最後の1月7日、仙川耳鼻咽喉科を訪れたのは、日本のテノール歌手の最高峰の一人、福井敬。昨年還暦を迎えた福井は、デビューからこれまでトップを走り続け、いまだ衰えを見せない。故障など聞いたことのない福井だが、意外な話も出た。
<音楽之友社刊「音楽の友」2023年3月号掲載>

デビュー以来、テノール歌手のトップランナーの福井敬は意外なことに、声帯出血を経験したことがあるということだった

加齢への対策

福井

私は、二期会のオペラでデビューして昨年で30周年、年齢的にも昨年11月に還暦になったばかりです。回復力がなかなか若いころのようにはいかない。喉の筋肉や粘膜は年齢、あるいはホルモンなども関係してくるのでしょうか。

竹田

声帯という声を作るところは、年齢を重ねるにつれて変化します。たとえば、ヒアルロン酸…… 細胞外基質という、声帯のヴォリューム的なものなどかかわっている物質が減ってきてしまいます。

福井

肌にはヒアルロン酸がよいと女性はおっしゃいますが、つながっているということですね。

竹田

そうです。それから、若いころに比べると、声帯を構成する物質が減少してきてしまう。声をとくに使っていない人は年齢が上がると、声帯の筋肉がやせ細ってきてしまいます。でも、歌手は、もちろん歌っておられるのでやせ細りは少ないですが、筋肉以外の部分の、粘膜を構成している物質が減少し、若いころと同じようにはなりにくいですね。

福井

私も最近、中音域で、声帯が合わせにくい感じがイメージとしてありますが、それも年齢的なものなのですね。

竹田

声を使っていない人よりは、保つことはできていると思います。男性の場合、潤いのあった声が、乾いた声や甲高い声に変化していくような感じになります。女性の場合は、年齢が上がると音程が下がる人が多いです。男性は、女性よりも音程は下がらないといわれています。ただ、最近の人は年齢の割に身体も若いですし、歌い続けていると保ちますので、昔よりはそんなには落ちていません。ホルモンのことですが、これも女性のほうに大きな変化があります。女性の場合は月経、それから出産もありますが、更年期に非常に大きな変化が訪れます。そこで女性ホルモンがとても減少しますので、そうすると声帯が大きく変わります。

福井

家内はハイ・ソプラノです。「最近、高い音域のほうが出るようになってきた」といって、発声レッスンでAのあたりまでいっていますね。

竹田・
道下

すごいですね。

福井

もちろん、それは鍛えていることもあるのだと思います。もちろん人によって違うのでしょうけれど。

喉に負担がかかる作品をどのように乗り切るかも一つの醍醐味だと思っています (福井)
無理に発声を続けていると、声帯結節やポリープなどができることがあります (竹田)


《マイスタージンガー》の楽譜はヴーカル・スコアでもこんなに分厚いのですよ、と福井(右)

疲労に対するには

福井

3月にびわ湖ホールでワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を歌います。

道下

それはスコアですか。すごく分厚いですね!

福井

ヴォーカル・スコア(ピアノ伴奏付きのスコア)です。電話帳よりも分厚い(笑)。これを覚えて、歌うわけです。喉の使いかたやスタミナって本当に難しいです。疲労をとるにはどうすればよいのでしょうか。

竹田

私がよく処方しているのは、ビタミンB系の薬です。ビタミンBのいろんな種類が混ざっています。筋肉の回復には効いていると思います。それから、過酸化すると炎症が起きますので、それを防ぐ抗酸化作用のあるものをたまに使います。アスタキサンチンやコエンザイムQ10など、美容で使うものもあります。いまの医学の流行でもありますが、アンチエイジングと呼ばれているものですね。過酸化物質は身体全体によくないのです。喉にも影響があります。声帯は、中央に筋肉がありその表面を粘膜が覆っています。筋肉疲労には、ビタミン系がよいと思いますし、粘膜もふくめて全体的にアンチエイジング的なものを使います。喉頭そのものを全体に上げたり下げたりする外喉頭筋という筋肉もあります。ここでも疲労したり、トラブルが起きたりすると、発声に影響がでます。疲労したうえで無理に発声を続けていると、声帯結節やポリープなどができることがあり、声が嗄れてしまいます。

福井

私は、声帯の内出血を起こします。いつも片側だけなります。

竹田

声帯出血ですね。粘膜の下が出血してしまうのです。ワーグナーを歌うときに、喉に力を入れて歌わなければいけないような場合、出血しやすくなります。ただ力んだだけでも出血する場合はあります。

福井

筋肉をクッと急に引っ張ったりすると?

竹田

強く合わせるような感じで、締めるような状態になると、血管は切れやすいですね。強くせき込んでも出ます。じつは、女性のほうが起こりやすく、とくに月経前後にホルモンのバランスの関係で、そうなりやすいかたもいます。この間、テノールのかたが、急に出血してしまいました。いきなりパーンと出血するのです。

福井

そうならないように、いつも気を使いながらやっています。

作品とともに

道下

テノール歌手は、早く故障を起こしたりする人が多いと聞いたことがありますが、福井さんはすっと第一線で活動しています。

福井

たとえば、ヴェルディやプッチーニなど有名な作曲家の名曲といわれる作品は、歌い手の生理なども考えられているのです。歌い始めて喉が温まってきたら、そのあたりで高いアリアをしっかりと歌い、だんだん疲れてきたら、音域は高くはないけれど劇的なドラマがそこに伴ってくる。そこまでわかって作曲家は書いています。そういう作品に取り組んでいると、身体もすごく納得していけるのです。喉に負担がかかっていた作品もあることはあるのですが、それをどのように乗りきるかもまた自分のなかの楽しみといいますか、一つの醍醐味だと思っています。

道下

以前のゲストで、年齢を重ねてきたとき、歌のイメージを変えないで、そのイメージに合わせて自分を変えているというかたもいらっしゃいました。

福井

若いころと同じようにイメージしていたら、同じパフォーマンスはできません。それを補うべく、どのように自分のイメージを膨らませていくかだと思いますし、音楽的なアプローチをさらに緻密なものにしていく。将来のパフォーマンスに対して自分自身を向ける。そちらのほうを思うことが多いですね。


イラストで知る発声ビジュアルガイド
セオドア・ダイモン 著
竹田数章 監訳
篠原玲子 訳
【定価】2750円(本体2500円)

プロフィール

福井 敬(ふくいけい)

1962年生まれ、岩手県水沢市(現・奥州市)出身。二期会のプッチーニ《ラ・ボエーム》でデビュー以来、群を抜く輝かしい声と卓越した表現力で長きにわたり日本を代表するテノールとして活躍。プッチーニ《トゥーランドット》カラフをはじめヴェルディ《オテロ》、ワーグナー《パルシファル》のタイトルロールなどのほか、メータ指揮ウィーン・フィルとの共演などコンサートでも高い評価を得ている。第65回芸術選奨音楽部門文部科学大臣賞、第9回出光音楽賞、第33回エクソンモービル音楽賞洋楽部門本賞など多数受賞。国立音楽大学教授。二期会会員。

■公演情報

R.シュトラウス「楽劇《サロメ》」(演奏会形式)
〈日時・会場・問合せ〉
6月24日17時・横浜みなとみらいホール・神奈川フィル・チケットサービス045-226-5107
7月15日14時30分・京都コンサートホール・京都コンサートホール・チケットカウンター075-711-3231
7月27日19時・アクロス福岡シンフォニーホール・九響チケットサービス092-823-0101
〈演奏〉沼尻竜典(指揮)、田崎尚美(サロメ)、福井 敬(ヘロデ)、谷口睦美(ヘロディアス)、清水徹太郎(ナラボート)、大沼 徹(ヨハナーン)、山下裕賀(小姓)、他

竹田数章(たけだ かずあき)

1959年生まれ、京都府出身。仙川耳鼻咽喉科院長。日本医科大学大学院博士課程卒業。医学博士。現在仙川耳鼻咽喉科院長。桐朋学園・洗足学園非常勤講師。音声生理学や臨床音声学の講義を行う。文化庁能楽養成会(森田流笛方)研修終了。趣味は音楽、スポーツ、観劇、フルート、書道。監訳書に『ヴォイス・ケア・ブック 声を使うすべての人のために』(ガーフィールド・デイヴィス&アンソニー・ヤーン著、音楽之友社刊)、『発声ビジュアルガイド』(セオドア・ダイモン著、音楽之友社刊)。

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